論文感想(大谷 正. 2014. 「在米日本公使館「書記官」D・W・スチーブンスについて : 大隈外相期と陸奥外相期に限定して」)

2017/06/23

大谷 正. 2014. 「在米日本公使館「書記官」D・W・スチーブンスについて : 大隈外相期と陸奥外相期に限定して」『メディア史研究』読んだ。

ー在米日本公使館で活動したスチーブンスに着目することで、「明治中期になると日本人外交官の育成が進み、お雇い外国人に頼らない外交活動が可能になったという思い込み」を否定しようとする。/①条約改正交渉における国務省や議会関係者との交渉・ロビー活動②調査報告書の作成提出③ジャーナリストへの接触、メディアへの論文投稿など日本の広報宣伝活動に従事したスチーブンスがいなければ大隈・陸奥外交期の在米公使館は成り立ちえなかった。と

ースチーブンスはのちに大韓帝国政府外交顧問となって日本の意を受けて活動し、韓国独立運動家に殺害される。勲一等旭日大綬章。/この論文は、1889年のベルリンでの条約改正交渉は英語に疎い駐独公使西園寺公望に代わってお雇い外国人のシーボルトが実質的な日本公使として交渉した。という大石一男『条約改正交渉史』での指摘に触発されての論とのこと。/ http://ci.nii.ac.jp/naid/40020218466

論文感想(前田 勉. 2015. 「林家三代の学問・教育論」)

2017/06/12

前田 勉. 2015. 「林家三代の学問・教育論」『日本文化論叢』(23)を読んだ。『江戸教育思想史研究』2016年に補訂されて載っている。

ー幕末・明治に政治的な討議を行う公共空間を準備したとされる、江戸時代の会読。その起源は荻生徂徠とされてきたが、更に遡って、幕府儒者の林家の塾においても似たことが行われていたこと、徂徠自身がそこから影響を受けているであろうことが、徂徠の『学寮了簡書』、林鵞峰(羅山の子、林家二代目)の『鵞峰文集』『国史館日録』などから論証される。林家三代というが、ほとんどは二代目の話のみ。

ー二代目鵞峰の時代(1650~70年代)、林家塾では対等な人間関係のもとで学力が競われていた、という点はよくわかる。が、その後の展開についてはわりと曖昧に先行研究を踏襲してしまっている。『本朝通鑑』編修が終わってからは林家塾が衰退していく、と簡単に述べているが、、、?京都の朝廷近辺や寺社周辺のコミュニティとの関わりも気になる。

ー「対等な人間関係」に鵞峰自身が入っていないという点をどう評価するかも問題であるとおもう。

論文感想(藤野 裕子. 2013. 「表象をつなぐ想像力 : ルポルタージュ読解試論」)

藤野 裕子. 2013. 「表象をつなぐ想像力 : ルポルタージュ読解試論 (特集 史料の力,歴史家をかこむ磁場 : 史料読解の認識構造(2))」『歴史学研究 = The journal of historical studies』(913)を読んだ。

-自ら史料を残さない主体の世界 をルポルタージュからいかに描き出すか。ルポルタージュの書き手の意図を描き出す手法はあらわれているが、それだけでは、人びとへは迫れない。そこで見つけ出された方法は、
①他の史料と突き合わせて実態を確定する
②観察された客体の側に立って、ルポルタージュで描かれるようなまなざしを向けられることがどういう意味を持ったのかを想像する。

-むろん②が重要。ルポルタージュの書き手の描く世界と、描かれる側の世界、複数の表象世界をつなぐ歴史家の想像力に自覚的であることがポイント。その上で、自分の属す現実世界や自分自身の内面など、自分の想像力を規定しているものを自分自身が理解し、更新し続けることが必要。

もっともだ、と思う。他でなされる歴史哲学や方法論に比べれば、学者間のコミュニケーションの話はされていないな、という印象。かなり孤独な営為として捉えられているように感じる。

論文感想(広瀬 和雄. 2009. 「古墳時代像再構築のための考察--前方後円墳時代は律令国家の前史か」)

広瀬 和雄. 2009. 「古墳時代像再構築のための考察--前方後円墳時代は律令国家の前史か」『国立歴史民俗博物館研究報告』150 を読んだ。

-長い。100p以上の大作。なんだこれ。考古学研究の現状批判に費やされる部分がとても多い。
記紀などの文献に安易に頼っていて、考古学が自分の方法論で独自の歴史像を描けていない。文献による先見なしでどこまで言えるのかを省みなければ。というのが1点。
「記録保存」のための発掘調査の増加と「ポストモダンふうの思潮」によって地域社会や多様性ばかりが言われて体系化が進んでいない。というのが一点。

-「前方後円墳とは何か」と「前方後円墳を媒介した政治とは何か」を峻別したうえで(文献による先見を排除して)論じる必要がある。ということで、広瀬さんの見通しは、
前方後円墳は〈共通性と階層性を見せる墳墓〉。
その祭祀は〈亡き首長がカミと化して共同体を守護するという共同幻想〉を内容とする。
大陸からの霊肉分離観が入ってくることで、〈共同性が属性であった前方後円墳に個人性が胚胎した〉ので、前方後円墳祭祀は形骸化していく。

-また、古墳時代の列島の政治的結合体を律令国家の前段階として観るのでは、記紀の影響下から脱していないことになると批判して、独自の時代として評価すべきという。そして、〈軍事権・外交権・イデオロギー的共通性をそなえ、大和政権(大和の有力首長層)に運営された首長層の利益共同体を前方後円墳国家〉とよぶ。

-〈考古学研究は有効なのか〉との疑義が出されているので、その情況と切り結ぶべきだが、そうなっていないと批判。
「あたりまえのことだが、〈問いのないところに解はない〉。資料の増加が研究の進展をうながすのは、所詮は幻想にすぎない。「古墳時代とはどういう時代か」といった問いがなければ、そして概念化と体系化を視野におさめた方法論の開拓がなければ、こうした情況はいつまでも克服されない。」(「おわりに」から引用。)

論文感想(前田 勉. 2016. 「近世日本教育史序説 : 「教育」概念を中心に」)

2017/6/1

前田 勉. 2016. 「近世日本教育史序説 : 「教育」概念を中心に」『日本文化論叢』(24)を読んだ。

-江戸期の「教育」という言葉を広く検索することで近世と近代の連続・断絶問題に対して再考を試みる。ということで「教育」という言葉が使われた例を林鵞峰から徂徠、藩校、吉田松陰まで並べ立てる。後半には「教化」と「教育」の比較や会読や講釈と「教育」「教化」との関連も。儒学はもともと「学びの学問」だったとして自発性を本質とすると指摘したうえで、科挙のあった中国・朝鮮よりも日本の方がその本質が現実化しやすかった、それが会読が日本独自のものとしてある理由だ、という。

-どうもこの論文にはなんとなく信頼できない印象を持ってしまう。思想家の言葉だけを抜き出して、実態を述べようとするからだろうか。(孟子の言葉としての「教育」への言及と、現実の「教育」への言及を、分けて考えないといけないのでは、とも思う)
また「本質」の頻出も気になる。概念分析だから、これでよいのだろうか。
あと明治期について、教育・教化などについて研究したのは、「谷本穣」さんではなく、「谷川穣」さんだ。ただの誤植だが。

論文感想(福永 伸哉. 1999. 「古墳の出現と中央政権の儀礼管理 」)

2017/5/31

福永 伸哉. 1999. 「古墳の出現と中央政権の儀礼管理 (考古学研究会第45回総会講演・研究報告)」『考古学研究』46(2)を読んだ。


-「多様な前史をもつ広い地域に初期の前方後円墳が短期間のうちに広がった要因は何か?」という問いを掲げつつ、文化人類学での儀礼論を援用して古墳時代の首長葬送儀礼と政治権力の関係について考察する。
簡単な儀礼論の論理的説明ののち、古墳時代の事例を具体的にあてはめていく。大型青銅器から銅鏡への象徴的器物の交替(これには実際に徳島の事例がある)、政権による神獣鏡の入手や製作の管理、葬送儀礼の複雑化による格差の明瞭化、中央の政治勢力の交替(河内勢力)にともなう儀礼管理の弛緩など。

-結論はわりに明確。直接的な支配関係の強要ではなく、共通の儀礼前方後円墳の葬送儀礼)に参入するという意味合いを持って出発したからこそ、初期の前方後円墳は多様な前史をもつ広い地域に短期間のうちに広がった。しかし、儀礼は中央-周辺の関係を生成・増大する本質的機能を持つので、政権はこれを通じて徐々に「中央性」を獲得していった。と。
儀礼の本質的機能についての分析などはこの論文ではなされない。
ちなみに拠っている儀礼論はT.アール、A.M.ホカートなど。ホカートの理解については青木保に拠るという。

-『三角縁神獣鏡の研究』2005に補訂されて収録されている。気づかなかった。

論文感想(和田 晴吾. 2003. 「古墳時代の生業と社会--古墳の秩序と生産・流通システム」)

2017/5/30

和田 晴吾. 2003. 「古墳時代の生業と社会--古墳の秩序と生産・流通システム」『考古学研究』50(3)を読んだ。

-「古墳文化論」で述べられていた生産・流通システムを詳述したものとして読む。多数行われている個別研究を見渡して全体を捉えていこうとする試み。
古墳時代の人・もの・情報の流れは上下関係を基本とする、対等な関係の交流についてはよくわからない。という。
古墳中期には畿内が生産・技術を独占、畿内の首長間で分業が行われた。後期に入ると技術が地方へ移転、広域的な分業が成立し、貢納体制が整備されていく。

畿内各地での生産の分業体制が、古墳時代に都市が成立しなかった一つの要因ではないかと指摘。奈良の飛鳥池遺跡のような複合的工房は、首長間分業の枠組みが崩壊してから現れたものだろうとする。
おわりにでは「部」研究との比較の深化を提言。

-工房での鉄器・須恵器などの生産が分業化されていたのは事例も挙げられていて納得するのだが、行政・祭祀・軍事の面でも同様というのはどういう根拠なのかが不明で疑問が残る。