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自分用メモ・ノート

若尾政希「『浮世物語』から時代を読む--近世人の思想形成と書物 」2008

内容

近世人は本を読んで思想を形成できたのか。

17世紀、寛文ころまでの時期は商業出版の黎明期。この頃の特徴は二つ。①それまで公家などに囲われてきた作品(徒然草太平記源氏物語など)が公開出版されて「古典」となっていく②仮名草子が作られる。

仮名草子の内容は多様だが、それを一人で体現しているような人物が浅井了意(~1691)である。そして仮名草子の要素を凝縮した作品として勝たれてきたのがその了意による『浮世物語』(1665ころ)。『浮世物語』は主人公:浮世坊が「ままにならぬ心」に翻弄され、そんな心をおさめようとして、結局おさめることができない物語である(が、研究史上そのような一貫性を持つものと評価されてはこなかった)。

一方、実際には仮名草子によって心を落ち着けた=思想形成した人物は存在した。榎本弥左衛門忠重(1625~1686,川越の塩商人)(『榎本弥左衛門覚書』)や河内屋清右衛門(1606~1660,河内国の富農富商,可正の父)(『河内屋可正旧記』)がそれである。

近世人の思想形成に書物知の果たした役割は大きいであろうが、読書をすれば思想形成をできるわけではない。『浮世物語』はその現実を描いている。「ままにならぬ心」をおさめるという課題は今に至るまで続くもの。

所感

冒頭で大量の問いが提示されている。書物出版流通研究はまだまだこれからとの意気込みというところか。

「心を落ち着ける」を「思想形成」と読み替えてしまうことで大胆に『浮世物語』と仮名草子受容のあり方を繋げてしまうのがこの短い論文の見どころという感じだが、強引というわけでもなく納得できてしまう。その読み替えが成立するロジックを聞きたい、というか「思想形成」とはなにかをもっと深く問うてもよいと思う。

そういう点で、『浮世物語』も興味深いが、『可笑記』を読んで「心おち付申候」と述べている榎本弥左衛門が気にかかる。書物、というよりも言葉との劇的な出会いがそこにあるのではないのか。弥左衛門自身言葉を残していることも重要なことだろう。当時の言語の最前線がここにあったのだろうなと思わされる。

了意は林家でいえば鵞峰と同時代。『榎本弥左衛門覚書』は東洋文庫に所収。

情報

若尾政希「『浮世物語』から時代を読む–近世人の思想形成と書物 」( 歴史評論 (694), 14-24, 2008-02 )
https://ci.nii.ac.jp/naid/40015803632

参考

『榎本弥左衛門覚書』は東洋文庫に所収。弥左衛門については奈倉哲三「商人的「家」イデオロギ-の形成と構造--榎本弥左衛門「覚書」を中心に」(日本史研究 (209), p30-68, 1980-01)、深谷克己「榎本弥左衛門」(『近世人の研究 : 江戸時代の日記に見る人間像』名著刊行会 2003.6 歴史学叢書)のほか、本論文より後のものには深沢秋男「『可笑記』の読者 : 榎本弥左衛門」(近世初期文芸 (32), 57-61, 2015-12)がある。

『浅井了意全集』全19冊刊行中。(浅井了意全集刊行会編,岩田書院, 2007.8-)『浮世物語』はその1所収(翻刻解題 深沢秋男)

『浮世物語』の筋の一貫性の指摘は、中嶋隆「『浮世物語』の構成と「浮世房」の変身」(国文学研究 (79), p143-152, 1983-03)

了意の思想形成と『浮世物語』の関係は、前田一郎「『浮世物語』の思想史的性格」(大谷大学大学院研究紀要6,1989)、前田一郎「浅井了意の思想--「勧信の論理」と仮名草子〔含 浅井了意著作年表〕」 (真宗研究 (34), p101-123, 1990-03)

2018/4/4