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自分用メモ・ノート

2017年12月の読書と感想

自由民権運動――〈デモクラシー〉の夢と挫折 (岩波新書)自由民権運動――〈デモクラシー〉の夢と挫折 (岩波新書)感想

再読。初読から一ヶ月しか経っていないが。/身分制社会(「袋」の社会)は戊辰戦争をきっかけに解体していくが、それにかわる新しい社会のあり方は不透明だった。その新しい社会=ポスト身分制社会をどうつくるのか。戊辰戦争で勝者側であったのに充分な見返りを貰えなかったものたち(政変以後、政権に「わりこみ」できなかった板垣退助。良いポストにつけない河野広中。一度与えられた士族籍を剥奪された尾張博徒)が、その新たな社会の形成を自分たちの手で行おうとする。その運動こそが自由民権運動である。

戊辰戦争以後、身分制にかわって所属すべき組織(拠り所)として「結社」が、各地でつくられていくことを重視している。そしてその「結社」は当時最も有力なポスト身分制社会の構想である民選議員構想→私立国会構想と接続していくのも「当然」という。だが、この段階で「結社」が新たな組織として浮上したことの意味は問われていない。「結社」の前史についても全く触れられない。近世にもその種の組織はあったはずだが、どこがどのように違うのか。ハーバーマスの「文芸的公共圏」の議論とかなり通じるようにも思えるが果たして。

その「結社」を全国レベルで統合していこうという動きは、本書のなかでも複数指摘されている。愛国社のそれ以外に、九州グループの動きや、交詢社、嚶鳴社など。その動きが最終的に愛国社を中心とする形で国会期成同盟自由党へと移っていく。愛国社が力をもったのはその「私立国会論」の魅力によるのだということになる。この「私立国会論」のきっかけとなるのは本書によるかぎりでは中津の永田一二の国会開設願望書原案の「請願体」のようだが、その背景は一体なんであるのか。
読了日:12月01日 著者:松沢 裕作


縄文人の世界観縄文人の世界観感想

縄文人の世界観=「神話的世界観」を、遺物・遺跡に織り込まれたシンボリズムとレトリックで読み解く。合理的・経済的な観点から遺物・遺跡を分析していては当時のあり様がわからない。貝塚はゴミ捨て場ではないし、縄文土器も実用性が第一ではなかったし、〈ムラ〉の立地場所も経済原理からだけでは理解できない。その世界観の解明のために認知科学での「心の理論」「適応的錯覚」、ユングの「集合的無意識」をもってくる。死の否定と再生の希求がその基盤。シンボルとして月・子宮・水・蛇があり、彼らはそれらを誇張と隠喩で表現した。

現代人とは違った原理が存在したというのはそうであろうと思う。試みは肯定されていいし、もっと追求されたほうがいい。その点非常に面白い。縄文人に「無」「美」「家族」「墓」「捨てる」などの概念などあったのだろうか、など。/しかし、あらゆる遺物・遺跡がほぼ全て「再生のシンボリズム」(=月・子宮・水・蛇・白・緑)で解釈されてしまうのはあまりにも単純にすぎるのではないか。そういう解釈を許す余地があるという点は理解できるものの。。。現代のポピュラーカルチャーを精神分析で読み解いたものみたいな読後感。

アイヌに月信仰がない。櫛や弓が祭祀具とされた背景に漆の存在があったのでは。なども興味深い。/縄文(非合理)と弥生以後(合理)を強調しすぎているとも感じた。縄文の再生信仰=死の否定、宗教=死の肯定という構図が納得行かない。/また仕方ないのだろうけれど、◯◯は~~のレトリックである。というような論理的な表現がそのレトリックを感じさせる場を殺している印象は否めない。
読了日:12月05日 著者:大島 直行


縄文の思想 (講談社現代新書)縄文の思想 (講談社現代新書)感想

アイヌ研究者による縄文思想論。/アイヌ・海民・南島に縄文文化は生き残っていた。弥生文化流入に際して縄文人の一部はそれまでの生業のどれか(漁撈・交易・獣飼育など)に特化する形で生き残った。彼らはその文化も保持し続けた。というのが3章までの話。/4章ではそれらから「縄文の思想」を再現する。彼らは贈与に執着するがそれは商品経済の非人間性への抵抗であり「生の肯定」である。彼らの社会は「離群の衝動」を織り込んでいる。議論はみなが勝手に語ればひとりでに出来上がるという「喧騒の思想」。など。「自由の思想」。

特に四章だが、考古学というよりも文化人類学的に縄文に接近している印象が強かった。筆者自身は、「網野(善彦)の海民論に折口信夫のまれびと論を接合しながら縄文へ溯及」する試みとしている。
読了日:12月05日 著者:瀬川 拓郎


ポスト〈カワイイ〉の文化社会学:女子たちの「新たな楽しみ」を探る (叢書・現代社会のフロンティア)ポスト〈カワイイ〉の文化社会学:女子たちの「新たな楽しみ」を探る (叢書・現代社会のフロンティア)感想

図書館に入った新刊で目についたので。現代の女子文化に関する論考集。ポスト〈カワイイ〉(「かわいい」が十分認められた後の時代)に直接言及があるのは最初のものだけか。残りのもののテーマは、プリンセス・女児向けゲーム雑誌『ぴこぷり』・夏フェス女子・女子とロック・歴女・ハロウィン・メイド喫茶・島ガール。/『ぴこぷり』は紹介されたそれそのものが強烈で興味深かったほか、歴女・歴史コンテンツツーリズムを”ポップ”スピリチュアリズム(歴史上の人物の霊魂とのつながり希求)で語っているのが面白かった。

「かわいい」は未成熟さと結びつくとされてきたが、その氾濫ぶりをみれば一概に未成熟と結びつける訳にはいかない、として、社会が多様性を求める(=成熟を目指す)時に必要となる感性の一つが「かわいい」という女性的なセンス(=男性的なそれへのオルタナティブ)だとしている。そのため「脱かわいい」ではなくポスト〈カワイイ〉だ。カタカナなのは本書が範囲を女性目線のそれに限定するため。(はしがきより)

内藤ルネという固有名詞は知らなかった。/『ぴこぷり』は女児の間ですでにどうぶつの森を介して二次創作文化(に似た何か)が受容されているという点面白い。/歴女論考は筆者の炎の蜃気楼への愛を感じた。/島ガールで紹介される、島で生活する現代女子の事例は興味深いが、彼らは「島ガール」なのか、というか島ガールって聞いたことなかった。/台湾のひまわり学連での運動リーダーのアイドル視というのは面白い話。
読了日:12月06日 著者: 


よくわかるメタファー: 表現技法のしくみ (ちくま学芸文庫)よくわかるメタファー: 表現技法のしくみ (ちくま学芸文庫)感想

たまたま瀬戸賢一という名とその文章を読む機会があり、その文体と内容が気になったので。初。短文でポツポツ畳み掛ける感じの文体。その呼吸にノレると読みやすいが、うまくノレずに躓きながら読み進めることになる部分もある。/メタファーがよくわかったかというと、あまりわかっていない。/裏表紙には「本当に「伝わる」豊かな文章表現へと導く、最良の手引き」とある。そういう本ではなくない?と思いながら読み終えたが、今感想を書く段になって、一つ一つの表現の手触りへの感度が鋭くなっていることに気づいた。多分少し効きすぎ。

メタファー研究への関心は掻き立てられた。もう少し体系的なものがよみたいので、巻末の「やさしい読書案内」に載っている(多分あんまりやさしくないんだろうが、)本を読んでみようかとも思う。とりあえず岩波ジュニアの『日本語のレトリック』か。

言語表現が、「私」を中心とする身体感覚(特に視覚)に強く規定されているという点は重要。人間中心的という言い方も当たり前ではあるが、改めて肝に命じたい。アフォーダンスとの関連も考えたい。
読了日:12月07日 著者:瀬戸 賢一


時間の言語学: メタファーから読みとく (ちくま新書1246)時間の言語学: メタファーから読みとく (ちくま新書1246)感想

『よくわかるメタファー』に続いて読む。実はこの本の一部の文章に触れて、瀬戸さんに興味を持った。「時間」とは何か、「時間」をどう考えるのがよいか、言語学(メタファー研究)から考える本。非常に面白かった。ベルクソンマクタガートもさくっと処理されて破綻がないように思われる。/「時間」は抽象的な概念であり、メタファーなしには理解できない。そのメタファーの中心は〈時間は流れ〉であるが、特に近代以降には〈時間はお金〉の勢力が増す。後者は変更が望ましい。→『モモ』からの引用で〈時間は命〉のメタファーを提言。

メタファーの変更が提言などによってなされうるのかという野暮な疑問はおくとして、言語、とくにメタファーの重要性がとてもよくわかる。人文学の基礎にあたるものではないか。/夏目漱石を分析して、時間のメタファーの進展を(ざっくりとだが)跡付けているが、文学者なるものが社会に果たす(果たしてしまう)役割も改めて実感する。/またメタファー体系の変換で科学革命を語るというのも新鮮で、視界が晴れる感がある。

「時は金なり」的な発想の流れをフランクリンや福沢諭吉に即して紹介しているが、これはいわゆる「勤勉革命」「通俗道徳」的な価値観を言語学から辿ったものではないだろうか。面白いですませられない。/「時は金なり」的なメタファーは近代に特有なわけではなく、ローマのセネカ徒然草にもみられるという指摘もちゃんとあるのだが、この徒然草も見逃せないところ。いわゆる「徒然草は江戸文学」(江戸時代にこそ国民文学として受容されはじめた)的な構図とあわせて考えるとまさに通俗道徳論に関する指摘ではないかと。膨らむ余地を感じる。
読了日:12月07日 著者:瀬戸 賢一


翻訳語成立事情 (岩波新書 黄版 189)翻訳語成立事情 (岩波新書 黄版 189)感想

言語学関係読書の流れで。翻訳語についての古典。1982刊。/目次が社会・個人・近代…などと単語の羅列なので、重要な文献ではあれ無味乾燥なものなんじゃないか…と思いつつ読み始めたのだったが、大誤解だった。ある部分は福沢諭吉論であり、ある部分は北村透谷論であり、ほかに三島由紀夫論も田山花袋論も自由民権論もある。全体としては「翻訳語」とはどんなものかが語られている。/「翻訳語」は意味がわからなかったり混乱したまま使われ、というより、だからこそ持つ魅力ゆえに使われて、その中で、新しく意味を生み出したりしていく。

花袋はその言葉の持つ魅力ゆえに「彼」を多用したし、三島は「美」という翻訳語の正体不明さ意味ありげさを活用していた。/「美」という言葉が入る以前、日本にそれに対応する概念はなかった。だから、「少なくとも基本的な態度として、一つの普遍的な観念としての「美」を先に立て、その特殊な場合として日本的「美」がある、という思考法は間違いである、と私は考えるのである」という指摘がある。重要。難しいことでもあるが、諸々のジャンルにおいてもっと意識されてしかるべき。
読了日:12月08日 著者:柳父 章


戦国期三好政権の研究戦国期三好政権の研究感想

三好研究といえば天野さんだが、その学位論文(大阪市立大)の書籍版。/三好氏の権力を国家権力=「政権」と理解する。それを解明することは織豊統一政権の起源を明らかにすること。そのために、荘園に代わって新しく村・町が基本単位となりはじめた畿内社会と三好政権の関わり(「一職支配」の成立、国人支配、自治都市・宗教勢力を包摂した支配秩序、堺の位置づけ)を検討する。/朝尾直弘・藤木久志などの中近世移行期研究を踏まえつつ、今谷明の三好政権論を批判的に継承する。都市史の仁木宏(天野さんの師にあたる)の名もよく出る。

上位権力の保証を受けず独自に領主編成をする点で他の戦国大名と共通するが、土地支配よりも都市流通支配を優先する点は固有性。都市流通に立脚することで急激な拡大に成功したが、構造的な軍役賦課体系や幕府に独立して諸大名を編成する論理を欠いた(長慶との個人的な関係に依存した)ために、将軍権威を再生産せざるを得なかった。織田政権はこのような三好政権の性格に規定されたものであり、その克服対象は幕府や一揆よりむしろ三好政権であった。長慶の将軍追放以降、秀吉の関白就任までが将軍に代わる統合のあり方が模索される時期。

個別点/畿内政庁としての芥川山城の重要性/三好は城下町を形成しなかった/摂津の池田などは地域経済圏(炭流通など)を基盤に成長した/織田政権の「一職支配」は長慶の摂津下郡支配に淵源する/荒木村重の離反は、織田政権の兵農分離的な方向性(地域を離れた武士の階級的結束)への地域の「侍」「百姓」の不安・反発による/三好家は二元的。当主が畿内中心を直轄、近親者に元本国を委任するのは、信長・秀吉にも共通する。
読了日:12月08日 著者:天野 忠幸


江戸の転勤族―代官所手代の世界 (平凡社選書)江戸の転勤族―代官所手代の世界 (平凡社選書)感想

東北大の思想史家高橋さんの著。タイトルはあまり内容を表さない。「代官所手代」と「狂歌」で江戸時代(特に文化文政天保期)を描くというのが意図するところか。手代というのは幕府天領代官の部下たち(町人などの出身)。各地の天領(福島・高山・豊後日田)を転任しているものもある。彼らは狂歌を通じて各転任先の文化を「媒介」し、自身もそのネットワークに入っていく。その様相を歴史探求ドキュメンタリーのようなタッチで描く。わかりやすさを意識しているのはわかるが、一般書にしては少し学術的硬さが強い。書物史研究の流れでもある。

「転勤族」という喩えはほぼ冒頭にしか登場しない。しかし転勤族が転勤先で趣味を通じてネットワークを築き、地域に(墓を作るほど)馴染んでいく過程とみれば、充分に現代的意味のある構図ではないか。「趣味縁」という言葉も流行らずに廃れた感があるが、僕はまだそこに関心があるし、その意味で興味深い。/狂歌天明期に最盛期を迎えあとは質をおざなりに量だけが増加していくという見方の中、文化文政期の狂歌は研究が薄い。一方代官所については武士である「手附」の研究はあれど「手代」の実態は未解明。という中かなり質の高い本ではある。

福島の内池永年の「みちのく社中」(文化頃)、高山の菊田泰蔵の「歌匠連」(天保頃)などの具体的なグループやその史料が登場するし、鹿都部(しかつべ)真顔による俳諧歌運動の全国展開なども紹介がある。そのような人的ネットワークのありようだけが本書の関心ではないので、その描写は一部に留まるものの、他でなかなか言及すらされないだけに興味深い。
読了日:12月13日 著者:高橋 章則


メタファーと身体性メタファーと身体性感想

メタファー研究が面白いらしいということで。タイトル通り、身体性研究に基礎をおきつつメタファーを考えるもの。/様々な研究が導入されていてその紹介についていくのが大変ではあるが、メタファーの話自体は具体的な言語表現の例が多々だされるのでイメージしやすい。/なにより九章で提示される「メタファー機構」「身体性マトリックス」がとてもおもしろい。…メタファーとは仮想スペースの設定である。そこに創られた仮想フレーム(元フレーム)の中で身体性が活性化して、その意識が現実に投射される。

アフォーダンス関係に関心があるところなので、その関連の記述も興味深かった。ここではギブソンの表象と知覚の関係、仮想と現実の二重性の話が特に取り上げられている。/ほか、ゴッフマン、ヴィゴツキーなどのフレーム、アーティファクト、フロントなどの概念。フォコニエのメンタル・スペース理論。なども気になる。/メタファーのうちの一部には神経的基盤(進化性基盤)がある、すなわち生得的である(〈優しさは暖かさ〉は両者が同じ島皮質で処理されていることに基盤がある)、というのも面白い。

13章では、メタファー研究の応用の事例として、政治とメタファーの関係などが言われる。どんな元フレームを利用してメタファーを使うかに留意すべき(「危ないメタファー」もある)とか、メタファー研究の軍事利用もありうるなど。/僕の関心としてはむしろやはり、メタファー(の元フレーム)の時代的変遷を追うことが、ある集団の心性史・精神史を描くことになるのではないかというあたり。元フレームを共有する団体が想定できるなら、その団体相互の交流がどうなるのかなどにも関心がある。日本語における漢語の位置など翻訳の問題もありそう。
読了日:12月15日 著者:鍋島弘治朗


戦国を往く連歌師宗長 (角川叢書)戦国を往く連歌師宗長 (角川叢書)感想
駿河生まれの連歌師宗長を通じて戦国を描く。宗長ははじめ、今川義忠に出仕、応仁の乱の最中に上洛して宗祇に連歌を学んだ。一休にも参禅。その二十年後、駿河にもどり、今川氏親のもとで、お抱え連歌師(千句興業の宗教性)・記録役(『今川家譜』など軍記物への影響)・京都との連絡役(三条西実隆細川高国との交流、荘園年貢のやりとり)などとして活躍する。/本書で指摘される、宗長の連歌における庶民への関心や自殺者への言及、諧謔などには宗長の人間味が窺えてとてもおもしろい。

基づく史料は主に『東路のつと』『宇津山記』『宗長手記』上・下『宗長日記』という宗長の日記・紀行。このうち特に『東路のつと』『宗長手記』上については、旅先で世話になった豪族に紀行を贈呈するという行為の結果成立したものではないかと伊地知鐵男に依拠して推測している。また、『今川家譜』成立に宗長が関連する可能性も言及される(島津忠夫)。/この時期の連歌師および文芸の位置がすこし分かる事例か。

幕府守護体制のもとでこそ幕府などとのパイプをもつ宗長の有用性があった。氏親の死と、高国の没落が宗長にとっては1つの画期。/戦国時代、各地の国人たちは連歌という文芸を求めていた。一方公家たちはその国人らに「文化」を売ることで生活をし、地方に下るなどもしていた(官位を得るときだけ上洛)。そのような実態が宗長の行動をたどると分かる。/連歌の行われようからも細川・三好の優位性がみえるような印象がある。
読了日:12月22日 著者:鶴崎 裕雄


中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)感想

春に買って積んでいたものを読了。/言語から「意思」について考える。言語は思考の可能性を規定する。古代ギリシア語には意思という概念がなく、中動態が存在した。中動態はやがて抑圧され、代わりに言語は能動・受動に支配されていく(「起こる」から「する」or「される」へ)。その抑圧への違和感の表明として哲学史を書き直す。/面白い面白いと聞いていたが、期待以上に面白かった。中動態など言語的な探求も興味深いが、中盤以降のハンナ・アレントとの対峙、後半でのスピノザ読解が非常によかった。

アレントは「一致」「同意」を重視するが、「非自発的同意」を認めない。そのため、同意したならばそれは自発的なものだと解釈されてしまう。自発的ではない同意というカテゴリーも必要。この指摘には正直ハッとした。別にアレントを精読して身につけているわけではないが、自分はここでいうアレント的な「同意」観で行動している部分があった。かなり具体的な部分で生活態度を修正する必要をかんじる。

スピノザの哲学は今まであまり知らなかったが非常に興味をそそられた。「神に他動詞はない」。「表現」や「様態」「変状」などの概念、「変状する能力」としての様態の「本質」という見方。「自己の本性の必然性に基いて行為するものは自由である」というスピノザの言。自分であり続けることを称揚している印象で、かなり危うさも感じるが、希望も感じる。/「あとがき」からはこの本が国際的な環境のもとでうまれた事情がわかり、この本がこうやって日本語で読めることにありがたさを感じた。
読了日:12月22日 著者:國分功一郎


当事者研究の研究 (シリーズ ケアをひらく)当事者研究の研究 (シリーズ ケアをひらく)感想

ずっと積んであったが、『中動態の世界』と合わせて読了。すごい本であり、すごい実践だ。この本自体は少々とっつきにくさがあるが、ここにある思考や実践はぜひ周囲と共有していきたいと感じさせる。障害といわれるほど重くはなくとも、自分を語るのが苦手で少し大変な日々を送っている知人達に。「自分自身で、共に」。強いフレーズ。/p162「免責の段階を経て初めて、引責が可能になる。」とある。このあたりの熊谷さんの発言は『中動態…』と直接関連するし、強烈に印象に残る。「私がした」のではなく「私に起こった」とでもいうか。

とにかく言葉の重要性を実感させられる。/熊谷さんのいう、夢でも覚醒でもない、「覚醒しつつ夢を見る」という第三の意識状態が「聴衆」の存在によって可能になる、というのがとてもおもしろい。「聴衆は独語を許さない。…しかも同時に聴衆は、「お前の記憶を顕在化させよ」と迫ってくることで、夢を見ることをも強いるのである。」SNSで発信することによって気づきが得られるというのと似ている。というかそれが社会なのか。

自分の言葉をもっていなかった者が言葉を獲得していく過程において、「研究」という言い方がパワーを持っていたというのは不思議な感じがする。/曖昧な感覚だが「知」の担い手の拡大というのはいつも同じように進んでいるのではないか、その最前線がいまここにあるのではないかという感じがある。(医療知識は江戸時代に医者以外の階層にも広まっていたし、医者の専門性も低い。農業についての知識なんかにも同様な経緯がありそう。)/なんとなく、出口なおのことを想起しながら読んだ。特に綾屋さんの文章。
読了日:12月23日 著者:綾屋紗月,河野哲也,向谷地生良,Necco当事者研究会,石原孝二,池田喬,熊谷晋一郎


メタファー思考は科学の母メタファー思考は科学の母感想

比較文学をやっているという大嶋さんの本。歌・物語・文学を語る。認知科学精神分析、哲学、物語論などを援用。タイトルの「メタファー思考は科学の母」というのが主張されていく本ではない。(これはジェラルド・エデルマン、マーク・ターナーの引用で言われているに過ぎないよう。)メタファーについても言及は多いが、それで体系立てて新しく何か言われているわけではない。/紀貫之読解などは面白く読んだ。/後半は飛ばし読み/からつ塾の活動は以前から気になっている。この本には特に出てこない。
読了日:12月23日 著者:大島 仁


TN君の伝記 (福音館文庫 ノンフィクション)TN君の伝記 (福音館文庫 ノンフィクション)感想

松沢裕作『自由民権運動』のあとがきから。これを小学生のころに読んで、自由民権運動に関心を持ったという。/思想家・TN君の伝記。こんなものがあるとは知らなかった。小学生高学年以上向けとのこと。深みが尋常じゃないが、だからこそ子どももインパクトを受けるのだろうな。/感動的だが、重さがちゃんと今の自分に返ってくる感じだ。

希望がまだかろうじて希望としてちゃんとあった時代に書かれた伝記だなという印象がたまに頭の隅によぎった。
読了日:12月24日 著者:なだ いなだ


漢文と東アジア――訓読の文化圏 (岩波新書)漢文と東アジア――訓読の文化圏 (岩波新書)感想

空いた時間空いた時間にざっくりと読む。いわゆる「漢字文化圏」における「訓読」について。朝鮮・契丹ウイグル・ヴェトナムでも訓読やそれに近いことは行われていた(中国自体でも口語で)。日本の訓読は中国の仏典漢訳でのそれの影響を受けている。が、そこにはおそらく新羅が関係する。/規範的な漢文だけでなく、候文などの変体漢文や仮名交り文、各国の同様の変体漢文・混用文などが複雑に関係して存在している(=「漢文文化圏」)。東アジア文化の総合的な理解にはそれらの解明が必要。

日本の訓読に関して、院政期になって本文の意味のみでなく訓読の読み方が問題になった、それは学問の秘伝的な伝授と関係する、との指摘がある。鎌倉以降、学問が開放的な方向へ変化していくと訓読のあり方も変化する。さらに朱子学の一字一句理解しようとする態度のもとで、直読への志向が生まれる。と。
読了日:12月30日 著者:金 文京


兼好法師 - 徒然草に記されなかった真実 (中公新書)兼好法師 - 徒然草に記されなかった真実 (中公新書)感想

日本史関係の一般書だと今年一番との声も聞く。ざっと読んだ。兼好法師について従来言われていた出自・経歴などをかなり修正しているよう(従来の説をさほど知らない)。しかし、そういうことを知らなくても充分面白い。鎌倉後期・南北朝期の武家・朝廷の社会のありさまが兼好とその文章を中心に活写されている。/無駄が少なく情報量が多い文体に思う。個人的には読み心地が良い。
読了日:12月30日 著者:小川 剛生


享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」 (講談社選書メチエ)享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」 (講談社選書メチエ)感想

享徳の乱」名称を60年代に提唱した(それが定着した)峰岸さんの本。享徳の乱が戦国時代のはじまりである、応仁の乱享徳の乱の飛び火によって起こった、と主張しつつ、享徳の乱の流れを追う。/主張のうち、(前者はともかく)後者は充分考えるに値するはずだが、少なくともこの本だけでは説得力に欠ける。/興味深い点はあるものの、あまり読みやすくはない。新田岩松氏を狂言回し役に、、、というのは主に史料的な問題からか。あまり知らないが、実証的にというより語り的に先行文献が少なくて叙述が難しいのではないかという印象。

武蔵五十川(いかつこ)陣の重要性がよくわかる。また『松陰私語』という同時代史料(新田岩松家関係の僧が著者、1509死去)はとても面白そう。ただし引用は一部句読点が変。
読了日:12月30日 著者:峰岸 純夫


読書と日本人 (岩波新書)読書と日本人 (岩波新書)感想
「ざんねんながらこの国には、シロウトの私をしっかり手助けしてくれるような専門家の手になる読書通史のたぐいが、まったく存在しない」という挑発的な文章からはじまる「大づかみな読書史的エッセイ」。/前半は「日本人の読書通史」。後半は「読書の黄金時代」として二十世紀読書論。もとは後半がメインらしい。二十世紀を論じようとしたが、その前に日本人と読書の関係が掴めないし通史もない、ということで自分で書いたとのこと。/〈読書の黄金時代〉はおわるが、〈紙の本〉の読書はおわらない。

前半/本を一人で(たいていは自分の部屋で)黙って読む、という行動のはじまりを、寝殿造→書院造という誰もが知る変遷に絡めて論じる(菅原道真菅原孝標女を例にしつつ)。銀閣の東求堂を見た自身の高校時代の感想「ここで寝転んで本を読んだら、どんなに気持ちいいだろう」に基づいたものとのこと。キャッチーでとても良い。/室町以降については原勝郎三田村雅子・鈴木俊幸・長友千代治前田愛・長嶺重敏などの研究に拠って書いている。『愚管抄』についてや中野重治の線引きのエピソードなど独自の指摘もある。

20c~読書の黄金時代。大衆化、読書は「よい習慣」という常識、おそ読みから多読はや読みへ。だが70年代から人は本を読まなくなっていく。/未知の他人が同じ本を読んでいる、という意識はそれまでなかった。と言っているが、これはかなり怪しいのでは。未知のというのが、階層も地域も異なる想像もしないような他人とでも言うのなら、そんな意識は今でもない。/電子書籍は、「使ふのに専門的な知識が必要でない」という本としての最低限の条件を充たさないという指摘は全く適切には思えない。吉田健一をこんな議論に引用するなよ、と思う。
読了日:12月30日 著者:津野 海太郎


Masato (集英社文庫)Masato (集英社文庫)感想
解説にもあったけれど、綺麗な文章で表現だ。真人の、細かい所への観察力がとても刺さる。劇のあたりでの感性も。「ぼくは大きくうなずく。これは英語のぼくがつくウソじゃない。ホントになるって信じてつくしかない、セリフのないぼくがつくウソだ」/タイトル、どう発音するのがいいのだろうな。問題の核は言葉なんだけど、やっぱり学校でもある。

あと、空港の発着ゲートは「だれもかれも、劇の登場人物みたいだった」なんてところも、これだけじゃ月並なのかもしれないが、でも、良い。
読了日:12月31日 著者:岩城 けい


中世の書物と学問 (日本史リブレット)中世の書物と学問 (日本史リブレット)感想
タイトル通り。主に国書の古典研究に関して。藤原定家の下官集ではじめて国書において「古典」意識が萌芽。古典となった書は伝授によって、師範について「読」まれる。院政期の「類聚」の動き、宋元類書の影響力。中世の学問は写本文化に規定されていた。/洞院公定(尊卑分脈)や一条兼良はその時代からはみだし、隔絶していた、との評価も。

博士家による点がある「読む」書物と、それがなく自ら繙く「見る」書物の区別というのは非常に大きな問題か。(『花園院宸記』にある表現による。)その区別は「施行(せぎょう)」とも関連。およそ『日本国見在書目録』にある書物は「施行」された書物で、それは博士家の点のある「読む」書物。改元の際に出典とされうる。/南北朝期以降、和漢聯句の流行の基盤には『韻府群玉』による漢故事の知識の平準化があった。
読了日:12月31日 著者:小川 剛生